登校日に見た「火垂るの墓」

毎年、終戦の日近くになると、小学校1年生か2年生の夏休みの登校日に「火垂るの墓」のビデオを見たことを思い出す。

たしか少し遅れて教室に着いたので途中から見始めたと思うが、最初に目に入ったのが、兄妹のお母さんが空襲で傷を負って全身包帯に巻かれ、ひゅー、ひゅー、と息をしている場面だった(息の音は私の想像かもしれない)。戦争のことをまったく知らなかったわけではなかったはずだが、息の詰まるような気持ちがした。その後も、なんで西宮のおばさんがあんな意地悪になってしまうんか、なんで清太があんなに殴られなあかんのか、理解しがたいことばかりで、悲しいというか呆然としたのを覚えている。とにかく今はそういうのじゃなくてよかった、と。あまりにもわけがわからなく悲しかったので、後日「火垂るの墓」のアニメ絵本を買ってもらって読んで、また悲しくなった。

小学校5年生の時には、NHKの「映像の世紀」シリーズを食い入るようにして見た。特に、その前年にアンネ・フランクの伝記を読んでいたこともあって、強制収容所の映像などは強く印象に残った。ユダヤ人というだけでこれほど恐ろしい目にあうなんて、なんてことだろうと、信じられない思いがした。

私の場合、戦争に対する関心やイメージの原点はおそらくこのあたりにあると思う。(きっと同じような経験をされた方は他にもいらっしゃるのではないだろうか)

 

でも、ここ何年かで気になってきたのは、西宮のおばさんのようにならないためには、ヒトラーの演説を聞いてなにかを期待してついていってしまうような人にならないためには、どう自分自身を戒めていればいいだろうか、ということだ。

さまざまな生い立ちや時代背景や信念などがあって、生き方を選択している。それでも、自分が満たされるために、他のだれかの肉体や精神を意図的におとしめたり傷つけたりするのは良くない。でも、目まぐるしく変わる世界にあって、私は正しく判断していけるだろうか。

なにかそういう焦りのような気持ちを抱えて、機会があれば時折、戦争に関する資料館などを訪れている。なにより、遺された場所やモノや声などに触れることで少しでも慰めになることがあればと思う。そして、なぜそのようなことが起きてしまったのか考え続けたいと、気持ちを新たにする。頭がいいわけでもなく行動力もない私だけど、せめてこのことは続けたい。